ヨベル(安息)の年!

Maria
September 14, 2006

Table of Contents

GN 1184 FD/MM/FM

マリア FD/MM/FM 3610 7/06

[表紙のクオート:]そこに座って雨に打たれている必要はないんだよ。わたしと一緒に飛んでいこう。雲の上に連れて行ってあげよう。もう雨は降らず、太陽が照り、幸せと喜びと自由に溢れている雲の上へと。 

愛する皆さんへ、

  1.このGNでは、皆さんにとても良いお知らせがあります。私たちの夫、主は、主を喜ぶことについてと、私たちにもっと溢れるほどに主の喜びを持ってほしいと思っていることについて、幾つかカウンセルを与えて下さいました。このカウンセルを皆さんと分け合えてとても嬉しいです。このカウンセルを心に銘じ、実行するなら、もっと良い人生を送り、イエスのためにしているものすごく大きな仕事をするためのより大きな力を得、敵があなたの上にしきりに積み上げようとしているネガティブな事がずっと減る助けとなるはずだからです。

  2.私たちは誰でも主の喜びや、救いの喜びについて知っています。主は、それがどれだけ大切かについて以前に語って下さいました(「直言、パート1」、ML #3499:150-165と「深く掘り下げよう」のリンクにある読み物を参照)。けれども、主は、この概念をさらに深め、主を喜ぶために戦う必要があること、また、これは、この終わりの日々にあって、私たちに与えられた任務を達成するために必要な力の一部であることを認識してほしいのです。

  3.(イエス:)愛する人よ、あなたの喜び、わたしにあってのあなたの幸福は、人生で不変のものであるべきだ。もしそうでないなら、また、それが欠けているか、ある時もあればない時もあるというものなら、どこかが間違っている。なぜなら、あなたの状況や、周囲で何が起こっているかに関わらず、心の中の喜び、生きる喜びは、わたしが与えると約束したものの一つだからだ。それは、わたしを知り、わたしのものとなる事の基本的要素の一つだ。だから、喜びがないというのは、何かが外れているか、正しくない時に自動的に表れる兆候なのだ。

  4.敵はあなたの喜びを奪おうとして多くのものを使う。わたしはそれを暴露したいので、これからその幾つかを指摘しよう。わたしの喜びは、花嫁であるあなたがたの権利の一つだ。あなたはそれを当てにし、期待できる。自分が受け継ぐべきものの一部として、また、わたしのために全てを与えたことへの報酬として、霊の内で真に要求すべきものである。

  5.「要求する」といっても、喜びを見つけようと走り回ったり、自分を喜ばせようと努めたりすることではない。わたしが言う意味は、喜びをもってわたしの仕事とわたしの意思を行うことであり、何ものにもわたしの喜びを締め出させたり、奪わせたりしないということだ。また、わたしの喜びで満たされるよう祈り、その後は、自分の分を果たし、わたしの喜びを奪うものに対して防御するということでもある。あなたがたは、それなしでやっていくべきではないもののごとく、熱心に防御して守らなければならない。わたしを喜ぶことはあなたがたの力であり、わたしはあなたにそれを余すところなく持ってほしい(ネヘミヤ8:10)!

  6.「わたしを喜ぶ」とは、どういう意味だろうか? その助けになるもの、あるいはその一部であると言えるものはたくさんある。

  7.*心の平安もその一つだ。わたしがすべてを支配していると知ることから来る安定性である。

  8.*期待もその一部だ。わたしが約束を果たすと期待し、わたしが行うことを楽しみに待ち、わたしの奇跡を起こすしるしを待ち望んで、その成就を見る時に喜ぶことである。

  9.*信仰もその一部だ。わたしの言葉や約束に対する信仰、あなたに対するわたしの愛への信頼、わたしの弟子となるという召命への信仰、あなたがわたしを愛しているゆえに、わたしは全てのことをあなたがたの益とすることができるという信頼である。

  10.*希望もその一部だ。周りの状況がどんなに悪くなっても、ここではあなたは旅人であり寄留者にすぎず、より良い場所に行くことが定められていること、また、この地上で耐えるべきことが多ければ多いほど、天国に着いた時の喜びと報酬が大きいことを常に覚えておくことである!

  11.*わたしに信頼することもその一部だ。わたしの腕の中で感じる休息と慰め、安心感であり、わたしがあなたを世話すると知ることである。

  12.*幸福もその一部だ。もともと幸せに感じる時もあればそうでない時もあるが、わたしのための人生は幸福であるべきだ。必ずしも平坦ではないかもしれないが、幸福であるべきだ。わたしのような見方ができるようになればなるほど、あなたはますます幸福になるだろう!

  13.*愛もその一部だ。わたしの愛を感じ、わたしの愛に気づき、わたしの愛に安心し、他の人にわたしの愛を与えることだ。それは喜びの大きな部分を占める。

  14.*感謝もその一部だ。わたしがあなたの人生にもたらしているものに感謝し、どれだけ困難になってもわたしを賛美することを学ぶことだ。

  15.敵はあなたがたの喜びを奪おうとして実に多くの手段を試みる。戦いに疲れさせ、ストレスを与え、問題を自分の肩に負わせ、物事をネガティブに見させ、ポジティブな見方をさせまいとする。わたしがあなたに望む物の見方を壊し、歪め、その代わりに周囲を見回させ、状況によって幸福が左右されるようにさせる。

  16.しかし愛する人たちよ、そうなる必要はない。敵があなたの思考をゆがませるままにさせる必要はない。あなたは、喜びを保持し、決してそれを手放さないかどうかを決めることができる。

  17.わたしはあなたに期待しているのはそれだ。あなたの心の喜びと平和と幸せは、わたしのためのあなたの人生において不変であるべきだ。周囲の外観や出来事に左右されるべきではない。そうである理由は全くない!

  18.あなたの喜びを奪おうとする敵の試みを認識できるようになるなら、また、自分の喜びと幸福を防御し、熱心にその保持のために戦えるようになるなら、その時、あなたは戦うための強さをはるかにもっと持つことになる。そしてそれは、ただ天国的な見方を保つことから来るのだ。あなたは霊の内でもっとずっと強くなるだろう。敵はもうあなたをあまり邪魔できなくなる!

  19.そのために戦い、的を絞る価値は十分ある。敵による自責の念と、疲労とネガティブさの重りを投げ捨て、わたしにあってより幸福になり、喜ぶというゴールを持つ価値は十分ある。このシンプルな変化によって、あなたの強さは増し、忍耐力が増し、霊的スタミナや抵抗力が強まり、あなたはわたしのための人生をますます楽しむようになるだろう。(以上、メッセージ)

  20.(ママ:)私たちの忠実な夫、主は、人生には負いがたい重荷や困難がたくさんあること、それらは喜ばしくはなく、対処するのが難しいことをご存じです。でも、すべては二つの部類に属します。一つは、あなたが対処する必要のないもので、主はそれからあなたを救出したいと思っています。たとえば、自責の念、ストレス、ネガティブさ、比べ合うことです。もう一つは、単なる「人生の試練」で、これは天国に行く日までずっとあるものですが、それが私たちの喜びを左右する必要はありません。主の喜びは主の花嫁としての私たちの権利であることに気づくなら、私たちはそれらのものにかかわらず喜びを抱き続けることができます。

  21.より大きなトピックであるストレスや自責の念など、主が救出したいと思っておられる事柄についてのカウンセルもありますが、それは今後のGNで出版されます。でも、今のところは、少なくともそれらは主からのものではなく、あなたの喜びを妨げており、それゆえに人生にその余地を与える必要はないことを知っておくといいでしょう!

  22.主はそれらを、「敵がわたしの子供たちにかけた不要な鎖であり、わたしへの奉仕において障害になり、妨げになっている」ものであると言われました。主はこう言われました。「これは解放の日である! 天における喜びの日である。ダビデの子供たちが、力とビジョンも新たに前進するからである。これは一日や一週間、あるいは一ヶ月しか続かないのではなく、彼らが地上にいる残りの期間を通じて彼らを助けるだろう! その意味で、あなたがたの喜びのために戦い、それを保持する必要があるというのは、啓示とも言えるかもしれない。たとえこれが昔ながらの原則であっても、それを新しい目で見てほしい。霊の内で彼らがかけていた目隠しを取り去り、新しい見地から、わたしのための人生を見る助けとなる見方で見てほしい。これはまさしく喜びに満ちたメッセージである!」

わが喜びを共に喜ぶ

  23.(イエス:)わたしの喜びはあなたの好きなだけ手に入れられる、それを手に入れ、感じ、それに生きる権利があり、それがあなたの力となるとわたしは言った。だが、敵は、あなたがただあまり幸せに感じないか、幸せになる理由はあまりないと考えていることを理由に、あなたがたの多くにこの喜びをつかみ取らせまいとしている。

  24.愛する人たち、心にわたしの喜びを持つための鍵とは、その喜びはわたしの喜びであって、あなた自身の喜びではないのを覚えておくことだ。それは、人生をそのまま全部満足しているという意味ではない。それは、わたしは幸せであり、その幸福と喜びをあなたの所に差し伸べてそれがわたしたち二人を包めるようにすると約束したという意味だ。それゆえに、それはあなたの心の中から生じる反応ではなく、あなたが求め、そのための余地を作る時にもたらされる、わたしの心の反応なのだ。

  25.まず、わたしを幸せにするものと、あなたを幸せにするものはかなり違うことに気づかなければならない。わたしの喜びは、来ては去ってしまうはかない物事や、周囲の状況に基づいてはいない。わたしの喜びは、喜ばしき将来、将来どうなるか、それぞれの状況つまりあなたにどのような可能性があるかに基づいている。わたしの喜びは、永遠に続くもの、天の言葉を愛し喜ぶこと、わたしの創造物を楽しむこと、愛の喜び、その他お金では買えない健全でいつまでも続くすべての喜びに基づいている。

  26.あなたがたも、そういったものに喜びを見いだすようにしなさい。わたしの喜びはそこにあるのだから。わたしの喜びがほしいなら、それを求めなさい。そして、ほほえむ価値があることや、もっと気苦労せずに済む助けになることに気づけるよう、わたしに助けを求めなさい。自分の気持ちを土台にするなら、さて、あなたはあまり喜ばしく感じないだろう。敵は間違いなく障害や心配や自責の念や、罪悪感にふけること、ストレス、その他、喜びを奪う多くのものをもたらして、わたしの喜びから来る特別な力を持たないようにさせるだろうから。

  27.しかし、こういった否定的感情を抱いているなら、上を見上げて、わたしの喜びがある所に超越しなさい。たとえ地上の状況は完璧でなくても、わたしの喜びはあなたを幸せにできる。わたしの喜びはそれを見越せるからだ。あなたの弱さやあなたが犯したどんな失敗にもかかわらず、わたしが幸せになれるとしたら、あなただって幸せになれるはずだろう? わたしは、将来、物事が全てうまくいき、今わたしはあなたが利用できる力を持っていると知っていて、それゆえにあなたのために幸せになれるとしたら、そして、わたしがその喜びを与えるとしたら、あなただってその喜びにあずかれるはずだろう?

  28.そう、愛する人よ、あなたはそれにあずかれる。まだ状況が完璧でなくても、あるいは物理的に幸せになれるほど周囲の物理的環境が揃っていないとしても、わたしはあなたを幸せにしたい。わたしの喜びで喜ぶなら、あなたは幸せになれる。たとえ多くの煩いに囲まれている時でも、わたしの喜びは、あなたが幸福になり、賛美で満ち、気苦労せずにいられるようにする。それはどんな地上の問題よりもずっと高い、諸々の天の最も高い所から来るのだから。

  29.わたしにあっては実に多くの喜びを見いだせる。多くの幸福、天国でのとても多くの愛、あなたがたの将来におけるとても多くの成功と大勝利、そして、今現在もたくさんの祝福と素晴らしいことが見いだせる。喜ぶべき事柄は本当に多くあり、だからこそ敵はネガティブなことや、あなたが幸せになるのを妨げる全てのことにあなたの注意力を向けさせようとするのだ。だから、わたしの喜びを受け取る事についてあなたに伝えたいことの要点とは、一見喜ばしく思われない物事にもかかわらず、わたしはあなたが幸せになれるようにしているということだ。喜びの世界は、あなたの世界を超えた所でありながら、手の届く所にあるからだ。

  30.わたしは、その世界に通じる架け橋、扉だ。あなたはわたしの花嫁であることによってわたしの喜びを得る権利があり、わたしとわたしの喜びを要求することを通して、ここでどんなことが起こっていても、より幸福なその世界にアクセスできる。あなたはとにかく幸せになり、超越できる。涙を通して幸せになるだけでなく、鳴り響く天国的な笑い声と共に幸せになれるのだ!

  31.この幸福を得るには、わたしの愛を受け入れて、わたしは、あなたにとって重圧となり、あなたを悲しませている物事からあなたを解放してあげたいこと、あなたに幸せで喜びに満ち、わたしのために自由になってほしいと思っていることを受け入れなくてはならない! それから、それらしく振る舞わなくてはならない! そして、この喜びを受け取る信仰の第一歩は、ネガティブな事ばかり考えることではない。

  32.わたしはあなたにわが喜びを差し出し、敵はネガティブさとがらくたと落胆と自責の念の、大きく悪臭を放つ山を差し出している。そういうたわ言ばかり見続けているなら、わたしが差し出しているものは全く見えなくなる。そして、あなたがサタンの贈り物ばかり見て、わたしが与えようとしているものに目をやる暇がないほどになるなら、わたしはあなたがその贈り物を感謝していないと感じるだろう。

  33.ネガティブさに目を留めることを拒みなさい! ストレス、ネガティブさ、比べ合うこと、自責の念、その他何であれ、悪魔が使っているものがこれ以上あなたの人生と心と感情を支配するのを断固として許してはいけない。敵を叱責し、敵に抵抗しなさい。

  34.この喜びを共に喜ぶには努力が必要だ。敵が戦い、あなたが喜ぶのを妨げようとしている時には、敵に対してより激しく戦わなくてはならない。敵はそうやすやすとわたしの喜びを得させはしない。むしろ、幸福であるべきではなく、わたしのための生活を楽しむべきでないというありとあらゆる理由でもって、あなたをずっと落ち込んで落胆したままにしておこうと意識的に決意している。

  35.障害はたくさんあるだろうし、幸福で明るく、自由に感じるなんて無理だとか不可能だと考える物質的かつ感情的な理由は山ほどあるだろうが、それらのものではなく、わたしのことだけを考えなさい! あなたがわたしを愛しているという事実と、あなたが超越する時にわたしたちが共に抱く愛によって、わたしの喜び、平安、幸せ、信仰、愛、天国的な見方を共有できるという事実に思いを集中させなさい。わたしの愛はあなたを解放して、あなたが自責の念や落胆、ストレス、その他何であれ喜びを奪うものの力を全く感じる必要がないようにする。わたしの愛はそれにもかかわらずあなたを愛するからだ!

  36.あなたが悪い時でも、後れを取っている時でも、罪深い時でも、愛に欠けている時でも、期待はずれの時でも、わたしの愛はあなたを愛する。わたしの愛は決してあなたを愛するのをやめず、最も大切なことに、勝利がすぐ先まで来ているという信仰を決して捨てない。実際そうなのだから。あなたへの愛の堅固な岩を土台としたあなたへの信仰ゆえに、わたしは状況がかなり暗く見えても喜びに溢れることができる。これからますます良くなっていき、あなたは最終的にわたしのためにやり遂げると知っているからだ。

  37.(イエス:)わたしの喜びを持つには、もっと永遠のビジョンを保つことが極めて重要だ。そして、今、現世で起きているささいな物事にあまり幸せや平安を左右させてはいけない。永遠の見地からすれば万事順調だ! だから、信仰をもって待ち望みなさい。そうすれば、あなたの現在もずっと良くなるだろう!

  38.地上の人間であるあなたがたは、時として、全ての問題がなくならなければ喜べないと感じる。何かがのしかかっている限り、喜びが奪われ、楽しめないとか、自由になれない、生きる意欲さえ感じられないと考えてしまう。何かネガティブな事が持ち上がったとたん、あなたの喜びの風船に針が刺さって、あなたは喜びなど存在し得ないと感じる。

  39.しかし、わたしの霊的喜びは、それをはるかに超えたものに基づいている。わたしは人生の嵐の間も幸せだ。雲の上では太陽が輝いている事を知っているからだ。わたしにはそれがわかるし、それを事実として知っているが、あなたがたはそれを引き出さない限り知ることができない。わたしは言う。「さあ、そこに座って雨に打たれている必要はないんだよ。わたしと一緒に飛んでいこう。雲の上に連れて行ってあげよう。もう雨は降らず、太陽が照り、幸せと喜びと自由に溢れている雲の上へと。」 だが、それを引き出さず、わたしの言葉をそのまま受け入れてそれを行動に移さないなら、あなたは、喜びがとても壊れやすく、すぐになくなってしまう肉体的次元にはまりこんだままになるだろう。

  40.だからあなたは敵とそのネガティブさに抵抗しなくてはならない。自責の念やうつと戦わなくてはならない。ストレスから無縁であり続けるために戦わなくてはならない。比べ合うのではなく、わたしのような見方で物事を見るよう、戦わなくてはならない。それから、すでにそれを持っているかのように振る舞うことによって、わたしの喜びに手を伸ばさなければならない。喜びを連想させるすべてのことをしつつ、信仰によって進みなさい。楽しみなさい! ほほえんで! わたしを賛美しなさい! 他の人を愛しなさい! わたしに仕えることを堪能し、自由であるかのように振る舞いなさい。そうすれば、実際にそうなるだろう。

  41.事実、わたしの真の喜びは、あなたが思いから押し出そうと懸命に試みている全てのネガティブな疑いよりもずっとずっと現実的であり、本物だ。これはもう一つの現実であり、人生に対する二つの異なる見方だ。一方に完全にスイッチを入れて、もう片方の存在をほとんどなくすこともできる。幸福と自由の領域に住むことを選ぶなら、他のものは何もあなたに触れることはできない。その逆に、闇の洞窟に住むと決めるなら、わたしの幸せはあたかも空想上のものと思えるほども遠い存在に思える。どちらの現実も、あなたがそうさせるならあなたの思いを覆い尽くせる。

  42.だから、わたしと空に舞い上がってはどうなのか? わたしはあなたを絶望と疑いに引き落とすものから引き上げよう。わたしはあなたにわが喜びの毛布を掛けることができる。それは人生のすべての素晴らしくて楽しい、ちょっとした事柄を楽しむのを助けられるばかりか、壊れやすい小さな地上の喜びをすぐに吸い込んでしまう人生上の悪いことすべてからあなたを保護し、隔離できる。

  43.あなたを幸せにし、喜びや楽しみや満足や充実感を与えるためにわたしがもたらすものを、毎日探し始めなさい。大きな事もあるが、まず小さな事に着目しなさい。わたしは、あなたがわが愛の贈り物を、罪の意識を感じることなく楽しむのを見たい。それらは全て、わたしからの愛の一部なのだから。わたしが与えたすべての祝福を楽しんでいるあなたを見たい。しかし同時に、もっと永続する喜び、地上的な物事のみによらない、永続する幸福も教えてあげたい。

  44.わたしがもたらす幸せは、信仰に基づいている。それは今という時を見越して、あなたへのわたしの愛の永続性に深い喜びを覚える。それが「神が私たちを愛していると知っているなら、全てがうまくいくとわかる」という言葉の神髄だ。わたしはそれをさらに掘り下げて、こう付け加えよう。神が私たちを愛していると知っており、全てうまくいくと知っているなら、神が私たちの人生のために備えておられるもの、神がどのように勝利をもたらされ、どのように私たちを幸せにして下さるかを見るのを妨げるものは何もない。

  45.また、わたしの喜びは賛美によって活性化する。わたしへの賛美ではちきれ、活発で陽気な喜びで真に心を挙げるなら、それは、あなたが喜びがあると感じるかどうかにかかわらず、わたしの喜びを要求し、それに生きている事をわたしに示す。この人生の多くのことが信仰に基づいている。だから、たとえそこに何も確かなものがないとしても、一歩踏み出してわたしが差し出す贈り物を要求するように求める。この喜びも同じだ。喜びを奪うものを拒み、笑みを浮かべ、わたしへの賛美で炸裂するなら、あなたはわたしの喜びをまとったのであり、その喜びはあなたのためにそこにある。

  46.あなたは幸せになれる。あなたは幸せになっていいのだ。もう一度人生を楽しんでいい。あなたは生きていい。今という時を台無しにしてしまったとしても、将来に希望を持っていいのだ。わたしを失望させてしまったと思っても、わたしの愛を信じてよい。愛をふんだんに与え、分け合ってよい。それがなくなることはないのだから。楽しみ、くつろいでよい。それは良いことで健康的であり、わたしはあなたが楽しみ、くつろぐのを見るのが大好きだからだ。また、とても大切なことがある。あなたは決して、決して、悪魔の声に耳を傾け、自分がいかに悪くて役立たずかを言わせておかなくてよい! 破滅と闇のそのメッセージは決して聞かなくてよいのだ。

  47.わたしの喜びは心の状態だ。あなたは、それを身につけ、それをわたしから受け取ると意識的に決めることができる。前の日に喜びを身につける努力をしているのでない限り、次の日には喜びをもって目覚められるというものではない。また、いつもその気になれば喜べるというものでさえない。あなたの肉と思いは悲しい気分かもしれず、ただその悲しみの中にじっとしているなら、喜びや幸せは訪れない。あなたはその幸せと喜びを自ら得なくてはならない。

  48.その意味で、これは信仰に似ている。信仰はただあなたの所に来はしない。そのために働きかけなくてはならないのだ。あなたはわたしの言葉を読み、それを信じるという努力をすることによって、信仰を築く。それから一歩踏み出し、たとえそれがあるのかどうか確かでなくても、その信仰を行動に移す。あなたはそれがあると知っていて、わたしをテストにかけている。

  49.喜びについてのわたしの約束もそれと同じだ。わたしの喜びはここにあり、あなたは自由で幸せになれる! いつでもそれを持ち、一生涯手元に保っておける。わたしはあなたに、いつもそのように生きてほしい。だが、感情に頼ってはいけない。肉の国ではわたしの喜びはしばしばはっきり見えないことがあるからだ。霊のものを見なさい。それがあなたを自由にする。(以上、メッセージ)

  50.(ママ:)これは本当に素晴らしい約束です! 今、ここで止まってこのメッセージについて考えて下さい。必要なら読み返して下さい。これらは、私たちの夫、主からあなたへの約束です。主は本気でこう言っておられます。そして、主はあなたがこの言葉を手に取って、約束を守るよう主に要求するよう望んでおられます! 主はあなたに幸せになってほしいのです。そして、今の状況の何も変わらなくとも、あなたは幸せになり始めることができます。ただ、主が与えようとしておられる喜びと解放、励ましを受け取り、主の約束を受け取って、要求し、ものの見方を変えるのです。これは、信仰によって手を伸ばし、信じた瞬間に実現されうるものです。

  51.もちろん、即座にすべての勝利が勝ち取られるわけではなく、より余すところなく主の喜びに生き、あなたが取り入れてしまった幾つかの間違った、主の喜びを消してしまう態度を完全に取り除くには、より長期的な変化も遂げなければなりません。たとえば、どんなに忙しい状況でもストレスを受けずにいるのを学ぶことや、自分が達成に追われていて、優先順序を正す必要があると気づくこと、自責の念に駆られやく、敵に簡単に喜びを明け渡してしまう傾向があると気づくことです。

  52.主は先ほどこれらについて短く語られましたが、私は、あなたの喜びや力、充実感、慰め、幸福感を奪う敵の策略を暴露する助けになるようなカウンセルをさらにまとめる予定です。でも、そのカウンセルを待たなくても、主の喜びや人生に対する見方を受け入れることができます。今日、たった今それを持てます。ただ、主にそれを求め、要求するだけです! それから、ゆっくりと、主に語っていただき、あなたの喜びを奪っているものや変えるべきものを示していただきなさい。主に共に働いていただきなさい。

戦いの傷

  53.これに関連する主題に、戦いの傷があります。主の軍隊の兵士としての人生において、非常に困難で緊迫した時期や非常に多忙な時期を通ると、幾らか戦いの傷を負うことがよくあります。主はこの概念を説明して、皆さんが戦闘で受けた傷に気がつけるようにしたいと思っておられます。そうすれば、主はあなたの霊にいやしを与えることができるのです。これに関する主の見方を聞き、受け入れるだけでも、皆さんの人生に多くの喜びがもたらされると思います。もっと励まされ、心が安らぎ、イエスのためにすべきことのための力がもっと得られるでしょう。主のカウンセルに従い、戦いの傷のいやしを見いだすなら、あなたはかつてないほどに強くなり、ネガティブさが頭をもたげてあなたの喜びを奪おうとすることも少なくなるでしょう。

  54.私たちは皆、物質的にも霊的にも激しい戦いを戦わなくてはならない時期を通ります。そして、そのような戦いの時に「戦いの傷」を負うのです。主はそれを、特定の戦いを戦ったことによって負ったものだと非常に簡潔に説明されました。それは霊的な事かもしれないし、実際的な事かもしれません。心痛、損失、ある特定の戦いを戦わなくてはならなかったことや、霊的戦争の緊迫した時期を通ったこと、仕事やホームでストレスの多い時期に特に関係する困難もあります。それらは、その戦いを戦うことにそれほど多くをつぎ込まなくてよかったとしたら違った状況になっていたかもしれない事柄です。

  55.誰もがおそらく、人生の何らかの面でいやしを必要とする戦いの傷を負っていると思います。それは何も恥じることではありません。主は私たちにできる限りバランスの取れた人生を送ってほしいのです。そして、極端に走るべきではないことについてのカウンセルをたくさん与えてこられました。その一方で、主は私たちが全てのことに同等に集中できない時もあり、時々打撃を受けたり、「負傷」したりすることも理解しておられます。それはたぶん、私たちが本来すべきほどすべての事を世話できなかったからなのでしょう。

  56.たとえば、迫害の戦いの間、皆さんは霊的に成長できます。また、羊やコンタクトの質問への答えとして御言葉の肉を与えることを強いられたので、彼らも強められました。また、マスコミを通してたくさんの「大衆伝道」ができました。でも、ホームの組織化やある人たちの個人的必要はおろそかになっているかもしれません。誰もが非常に忙しく、ホームには本来あるべきバランスがあまりないのかもしれません。いったんマスコミの嵐や迫害の状況が落ち着き始めたら、あなたは他にもっと関心を払うべき場所や「いやし」を必要とする面があることに気づかなくてはなりません。損失があったか、余分に関心を必要とするそのような面が戦いの傷なのです。

  57.あるいは、この2年間の改革、あなたはホームのセットアップに全力を注いできたのかもしれません。新しいステアリング・カウンシルを選び、評価基準を満たし、子供たちにつぎ込み、その他なされるべき多くの必要な事柄をしてきたのでしょう。でも今、少し消耗し、今まで脇に追いやり、主からの答を聞いたり、御言葉で信仰を強めたりする時間を取っていない疑問が心に幾つかあるのかもしれません。御言葉の時間でさえ、ホームや仕事に関する差し迫った必要に焦点を合わせなければならなかったからです。このように、まだ答を受け取る時間がなかった質問や、霊的疲労は戦いの傷です。

  58.理由が何であれ、非常に忙しいか、緊迫した時期を通った時は、あなた自身の人生においてこの原則に気づくことが大切です。状況が変わり始めたら、自分が何らかの戦いの傷を負っていないか、ホームや人生の何かの面で余分の関心を必要としている場所がないかを、立ち止まって主に聞いて下さい。それから、ペースを落とすよう余分の努力を払い、そのような面に関心を払い、それらの面のいやしを主に求め、もう一度バランスを取り戻させて下さい。

  59.そうしないなら、それは弱点になります。たとえば、引っ越しをしなければならなかったのでプッシュをするとします。これはまず、「総動員」の状態になるでしょう。家を探し、子供を世話し、あれやこれの仕事をするため、メイトと少しの間離ればなれにならなくてはならないかもしれません。あなたたちは主の御心の中にいるので、主は二人の世話をされますが、また一緒になった時には、夫婦の間に多少の「戦いの傷」があるかもしれないことを知っておくべきです。ですから、休みの時に二人で何かを一緒にするなど、再びつながりを強めるために余分の努力が必要かもしれません。それをしないなら、あなたとメイトとの間のその敏感な部分、あるいは距離感が大きくなり、やがて結婚生活を続ける信仰がなくなってしまうことにもなりかねません。

  60.もう一つは子供に関する例です。たとえばキャンプやリトリートを主催し、その準備で忙しかったとします。その間子供たちは他の人たちともっと時間を過ごさなければならず、あなたと一緒にいる時も普段のような質の高い関心は得られません。あなたは子供たちに集中していないからです。そのリトリートやキャンプの準備に専念しているのです。一度に全てのことに集中できないのは当然ですが、キャンプが終わったなら、あなたは立ち止まり、その状態を続けることはできないと気づいて、数週間子供たちが良い兵士だったことをどれだけ感謝しているかを示すために、子供たちともっと多くの時間を過ごさなくてはなりません。そうするなら、敵はそれを使って子供を弱めたり傷つけたりできません。

  61.戦いで傷つくのは仕方ありません。それは誰にでも起こります。それは兵士の人生に付きものなのです。主は私たちの犠牲をたたえ、それを戦いの傷と呼ぶことで、私たちがそれに気づいて、傷を負うことや仲間たちの助けや祈りを求めることを恥じたりせず、いやしのために主が踏むようにと示されるステップが何であれ、それを踏みやすいようにして下さっています。

  62.主はその戦いの傷をいやしたいのです。主はあなたを強めたいのです。自分の戦いの傷に気づくのはその強めの一貫です。主は、この2,3年に関連して、以下のようなメッセージを与えられました。その時期はすべての人にとってとても厳しい期間で、余分の仕事と余分の霊的戦いがありました。主は、私たち一人一人から多くを要求されました。皆さんも実感したでしょう。皆さんは、強められ、評価基準に生き、勝利チームを築こうと必死に働きかけていて、いわば「大激戦」を戦っていました。ですから、いやしを必要とする傷や、敏感な部分があるのはもっともなことです。

  63.(イエス:)「戦いの傷」という言葉を聞いて、それは自分が及ばなかった事柄、あるいは人生のある面でバランスを崩してしまった面といった、失敗の新しい呼び名のように思う人がいるかもしれない。そのような見方で見たいならその通りと言える部分も幾らかあり、それはひどく落胆させられる。だが、わたしの見方はこうだ。もしあなたが、極めて急を要した戦争全体にすべてを注いでいたとしたら、一度にすべてに集中することはできないので、人生の幾つかの面がうまくいかなくなったのだ。そのような損失はあなたが戦いに勝つために払った犠牲のようなものだ。

  64.また、他の人たちに傷つけられたという人もいた。相手が全力で戦っていたため、意図的でないとしてもあなたをここそこで打ちたたいていたことに気づかなかった場合もある。あなたは彼らの手によって負傷したが、それもまた戦闘行為の実である。

  65.だから、わたしはそれら全てを戦いの傷と呼んでいる。もう少しうまくやれたかもしれないが、試みる時間がなかった物事だ。あるいは、緊迫した時期でなければ違ったやり方をしていただろうけれども、戦闘のまっただ中にいたので急いでやらなければなかった物事だ。緊急事態下では、全員が最善を尽くしていても、副次的な影響があるものだ。

  66.愛する人たち、わたしはそのように見ている。あなたもそのように見るなら、はるかにもっと励まされ、今、前進を続けてその傷のいやしを要求する信仰に満たされるだろうと思う。あなたのせいではなかったとわかるからだ。わたしはあなたにとって有利に解釈して、戦争に焦点を合わせずにすんだならそういったことに費やす時間がもっとあっただろうから、おそらくそれらの面でもっと強かったに違いないと言っている。集中的に一つの前線でこれほども激しく戦っていなかったなら、あなたは腕であれ、脇腹であれ、脚であれ、無防備のままでいて負傷することもなかっただろう。

  67.わたしがあなたの人生の弱まった面や、あなたが受けた傷であなたをさばいているのではないとわかってほしい。たとえあなたが少し高慢で過敏になったゆえに受けた傷であっても、あるいは、わたしとの時間を十分に取らなかったことで受けた傷であっても。あなたが何かの面で怠ていけたからではない。あなたは懸命に戦ったが、ただ一度に全てを行うことができなかったので、ここそこでうまくいかなかったところがあったのだ。愛する人たちよ、大丈夫だよ。それが人間というものだ! 全体的にはあなたはとても良くやった!

  68.これらの言葉が信じられるなら、自分の人生を見つめて、どこに傷を受けたかを見てもそれを恥じない信仰がもっとたくさん得られる。むしろ、懸命に戦ってきた一人残らず全ての仲間たちが、同じような傷を幾らか負っていることを知りなさい。彼らの霊は別の所に傷を負ったかもしれないが、皆が負傷した。そして、それは何も恥じるべき事ではない。戦闘服を脱ぎ、わたしが置いたいやしの泉に入って、いやしを見いだしなさい!

  69.それから、愛する人たちよ、わたしがあなたを見ているのと同じ信仰と称賛の目で互いを見てほしい。あなたが誰かとの間で苦労して、その人はある面で「要点を得ていない」と思っても、彼らは大きな戦いを戦うのに忙しかったので、きっとその面に集中するための時間がなかったのだと知りなさい。あなたはその人があなたに何かを言うべきだと感じても、その人はそれを言わなかったか、あなたに相談もなく何かを決めたか、本当にあなたを傷つけることをしたなら、少し違う角度で、その人たちが他の面でどれだけ懸命に頑張っているかという観点から見てみなさい。おそらく彼らもあなたと同じくファミリーに仕えようとして最善を尽くしてきたのであって、的を絞れなかった面が幾つかあったのだろうと、彼らにとって有利に解釈しなさい。一度に全てのことに焦点を合わせようとしたら、きっと何もうまくできなかっただろうから。戦争に焦点を合わせなくてはならず、そのために他の幾つかの面を放置しなくてはならなかったことで、一人残らず全員が負傷したのだ。

  70.どんなひびや不足や弱さも、わたしのような見方で見ることができるなら、あなたはもっと同情や理解を持つようになる。人の行動などによって傷つく代わりに、その人の傷を手当てしたいと思うだろう。あなた同様その人もわたしのために最善を尽くしていたこと、また、共に御国を救おうと背中合わせに戦っていたらうっかり剣を少し大きく振りすぎてあなたの肩を切ってしまったのだと知り、彼らにキスをし、愛し、仲直りしたほうがいいだろう。あなたを傷つける気はなかったのだし、あなたもそんな気はなかった。それは戦いの傷である。

  71.愛する人たちよ、そのような見方で見られるなら、いやしや進歩や変化のための信仰がもっとたくさん持てるようになる。そして、このような謙遜と信仰の姿勢は、あなたがたを結び合わせ、過去をいやすために大きな効果があるだろう。

  72.だから、これは、全ての傷心やひびや弱さを「戦いの傷」に分類し、わたしにそれをいやさせなさいという、広い呼びかけだ。あなたは完璧にはならないし、今でも最後まで戦うための兵士だ。だから常に戦いの傷を負うだろう。しかし、あなたはそれを戦いの傷として見続け、同労者たちの前にそれをさらけ出し、傷口をきれいにし手当てしてもらうための信仰が持てる。シェパードはわかってくれると知っているので、彼らに助けを求められる。人の戦いの傷を同情の目で見ることができ、彼らが助けを求める時、それにいらつくのではなく、助けに駆けつけることができる。

  73.一度に専念できることには限度があることを知り、あなたの心がわたしに対して正しく、ファミリーのため、あるいはホームにいる人たちや子供たちのため、羊、仕事、その他何であれあなたが全てを捧げている事のために大きな戦いを戦っている時、わたしは放っておかれた部分を戦いの傷と見なす。できるなら喜んで対処しただろうが、あなたには手が2つしかないので、ただできる限りをしたとして見る。あなたもそのように見るべきだ。

  74.これで気分がよくなっただろうか? そうあるべきだ。わたしはあなたを愛しており、その傷をいやしたい。そしてあなたに、他の人たちの傷をいやすのを助けてほしい。全ての人にいやしがある。今も、そして永遠に、わたしによって、そして謙遜と愛とゆるしによって。(以上、メッセージ)

*

  75.(イエス:)わたしが言う戦いの傷とは、特に、ファミリーを救うためにするようわたしが求めたことで忙しくしたり、わたしの仕事のために犠牲を払わなければもっとよくできたであろう事柄だ。NWOにも、戦いの傷の部類に入るものがある。あなたは最善を尽くしていたけれども全てをすることはできなかったからだ。しかし、それ以外のNWOもある。誰にでもあるものだが、もっとよくやるべきだと知っていながら、そのための犠牲を払ったり、変わろうと熱心になったり、謙遜になって助けを求めたり、中毒を捨てたり、その他何であれ、まだそれを喜んでしようとしていないのだ。

  76.注意していなさい、愛する人たち。わたしはできる限りあなたがたの人生が調和の取れたものになるよう願っている。それがわが意思だ。だが、何かに熱心に集中しなくてはならず、何かの面でわたしがもっと多くを求めている時は、それについてわたしから聞く時間を取り、その必要を検討し、ホームやシェパードたちとカウンセルして、必要とされることに注ぎ込んでいる一方、他の必要な要素をおろそかにしていない事を確かめなさい。そうするなら、必要とされるわたしの祝福とわが意思の裏付けを得たならば、かかった費用は全てわたしが払うという約束に信頼し、要求できる。

  77.わたしが戦いの傷についてのこのカウンセルを与えているのは、わたしは物事があなたにとって常にバランスの取れたものではないことを理解していると知ってほしいからだ。できる限り何度でも、バランスの取れた状態に戻すことを学ぶのも、健全な生活を送る事の一部だ。時々バランスが少しくずれてしまう事で自責の念を抱いてほしくない。安心し、慰められ、励まされて、これまで以上にずっと良くやってほしい!(以上、メッセージ)

  78.(イエス:)ある意味で、戦いの傷は単にとても忙しい時期からの副作用だ。戦いの傷は人生の一部である。あなたがたは兵士であり、兵士は戦場に行けば負傷する。そして、どのような戦争でも勝利までには数多くの戦闘がある。

  79.あなたはいやしを見いだすことを学ばなければならない。負傷した時にはそれに気づくことを学ぶべきだ。わたしが「戦いの傷」は不可避であるというアプローチを取っているのは、時として、これは実際に不可避だからだ。必ずしも、罪や不従順やプライドによって引き起こされるものではなく、不完全さや、全てのことを一度にできないことから起こる。それは人間であることの一部なのだ。

  80.あなたには、常に何らかのいやしを必要としているだろう。それは、わが軍隊で戦うことの一部に過ぎない。傷を負ったことに気づいたら、誰もが傷を負っていると知って、積極的に助けを求めてほしい。

  81.常にバランスを保つことはできないとしても、わたしは一人一人に、バランスを追求してほしい。常に完璧なバランスを保つ事は不可能だが、それはそれでよい。わたしは理解する。しかし、何かのバランスが欠けている時にそれに気づかなくなり、バランスのくずれた状態を自分のライフスタイルにしてしまって、もうその必要はないのにそれを続けてしまう時に、危険が生じる。自分の傷の状態を知り、緊迫した時期を通った時はいやしを求めるのが必要であること、これがこのメッセージを通して知ってほしい非常に大切なポイントだ。(以上、メッセージ)

疲れはて、負傷しているが、強められている

  82.(ママ:)この2年間、おそらく皆が戦いを感じたと思います。そして、本当に戦いを感じたのであれば、また、いやしを必要とする戦いの傷を幾つか負ったかもしれないと気づいたなら、結局本当に自分は強くなったのか、あるいは弱くなったのかと思うかもしれません。主は昨年を強めの年と呼ばれました。でも、多くの人にとってそれはほとんど情け容赦ない戦いでした。そこで、私たちは主に、このような非常に緊迫した戦いでどうして強められうるのかを尋ねました。以下は、主からの励ましに満ちた答です。

  83.(イエス:)貴い恋人たちよ、あなたが自分のことや自分の戦いの傷のことをどう思おうと、傷が幾つあってどれだけ深く傷つき、戦闘によってどれだけ疲労しているかに関わらず、あなたは信仰によって歩まなくてはならない。わたしがあなたにあって強いこと、さらには、わたしの力はあなたが負った傷を通してさえも完全に現れることに信仰を持たなくてはならない。

  84.あなたは、わたしの力はあなたが弱い時、つまり戦場で撃たれた時に完全になるというわが約束の真理にしがみつかなくてはならない。よろめき倒れたとしても、その時にこそ、あなたは強くなった。その時、あなたは進み続けるのに必要な助けをわたしに求めて呼ばわったからだ。

  85.一人一人が非常に多くのことを経験した。戦いを戦うたびに敵の強打を感じた。自分を強めるどころか弱めると思われるような犠牲を払わなければならなかった。ファミリーを救うための戦争のこの局面で勝つために、全てを捧げなくてはならなかった。それで、結局自分はかつてないほど弱くなったと思ったかもしれない。

  86.愛する人たち、あなたがたは多くの戦いの傷を負っていて、わたしにはその一つ一つが見える。しかし、傷を受けたからといって、それで以前より弱くなったという意味ではない。傷は治るものであり、霊の内に完全にいやされてそこは強い面になるだろう。戦争の結果攻撃を受け、実際に傷を受けて、一時的に弱くなった人生の全ての面はいやされ、そのいやしはあなたの人生のその面をより強く、タフにするだろう。

  87.わたしは司令官であり、戦士であり、この地上でも霊の世界でも、戦闘に勝つための軍隊の進め方を知っている。しかし、わたしはあなたをいやし、慰める者でもある。今は、全ての傷のいやしの時であり、わたしの慰めと励ましと強めの香油をあなたに注ぎ、あなたに否定的な影響を及ぼしていたものすべてを洗い流し、清める時である。

  88.愛する人たち、全ての戦いや負傷によって永遠に傷つけられたのではないかと心配してはいけない。もしそうだとしたら、わたしの力はかなり弱々しいということになる。

  89.あなたはわたしの恋人、花嫁、愛しい人たちであり、わたしはあなたを愛し、いつくしむ。戦闘に勝つために耐えなくてはならなかった弱化の一つ一つに対して、わたしはあなたへの報酬として霊の祝福を注ぎ出した。わたしはあなたを不必要に苦しませたりせず、あなたに報い、結果としてあなたを強める。わたしの力と塗油であなたを強める。あなたは強くなったとは思わないかもしれず、肉の思いではそう「感じ」ないかもしれないが、それはわたしの約束なので、信仰によって受け取らなくてはならない。かかった費用は何であれわたしが支払う。そして、愛する人よ、わたしの支払は、あなたが続けていくために必要な塗油と強めという形でなされる。

  90.戦いによって弱くなるばかりなら、あなたはもうずっと前にあきらめていたことだろう。戦いはあなたを弱めるのではなく、より強くする。あなたは、あなたがたの内にあるわたしの力によって強くなっているのであり、進み続けるにはその力を要求しなくてはならない。わたしの力は非常に強い。それは完全であり、すべてが強めであり、あなたに必要な全てだ。

  91.愛しい人たち、あなたが戦わなければならなかった多くの戦い、さらには今も続く戦いや、直面しなければならないもののことで心を悩ましてはいけない。わたしの力を求めてわたしを見、わたしの塗油を呼び下ろしなさい。そうすればますます強くなるだろう。肉の内にどう感じようと、あなたがたは霊的に強い兵士たちだ。戦闘でどれだけ汚れたように感じていても、霊の内にはわたしのために光を放っている。戦争の時についた汚れであなたの価値が減るわけではないし、不適格兵になるわけでもない。逆に、あなたの価値を高め、優等兵とする。

  92.長く厳しい戦いの後には、とても疲れ、消耗し、回復できるだろうかと思うのは自然なことだ。もうへとへとで進み続けることができないとか、前のように戦ったりさえできないと思うのは自然なことだ。だが、愛する人たち、信仰を持たなければならない。わたしの言葉への信仰を。わたしは弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加える。わたしはあなたの力である。

  93.あなたが弱く感じた時はいつでも、わたしがあなたの強さとなった。痛みや苦しみを感じた時には、わたしはあなたの強さとなった。あなたの強さはわたしの内にあり、わたしは必ずあなたを通して強くなる。傷の清めといやしをわたしに求める限り、あなたがわたしのために戦った戦いによって傷つくことを一切許さない。愛する人たち、それはあなたを強めるだろう。あなたは弱さから強められ、戦いによって霊的な力を得るというのがわたしの霊的原理であり、約束だからだ。

  94.これまで戦ってきた戦闘のゆえに、あなたは今、強くなっていると信頼しなくてはならない。いやしと清めをわたしに求めて、忠実にわたしの下に来るなら、あなたの傷でさえ共に働いて益となるだろう。いやされた戦いの傷はもっと丈夫になるので、傷が多ければ多いほど、あなたの皮膚は厚くなる。(以上、メッセージ)

  95.(イエス:)火をくぐり抜けてきて、「煙のにおいも付けず」出てきたとは言えないと感じたとしても、わが玉座に立ち上る香りは煙のにおいではなく、わたしとファミリーに仕えることに命を捧げた者たちのかぐわしき香りであると知りなさい。鍵の力は、あなたが煙のにおいと考えるものを素晴らしい芳香に変えた。それは、他の人たちの道が明るく照らされるように自分のろうそくを両端から燃やす人たちにのみ与えられるものである。

ヨベル(安息)の年!

  96.(ママ:)聖書の時代に、ユダヤ人たちが50年目ごとにその年をヨベルの年としていたことを覚えているでしょう(レビ25章)。それは、奴隷が解放される年でした。主は最近、今年はヨベルの年であると言われました。主は、あなたが負ってきた重荷、そして主が与えようとしている主の喜びを窒息させ、覆い消していた重荷からあなたを自由にしたいのです。

  97.(イエス:)今年はいやしの年となる。この年は、これまでの戦争の年月にわたしがあなたがたの人生に形作ってきた全ての資質が、その本来の姿である高価な宝石として表れ始める年となるだろう。

  98.これはヨベルの年であり、プレッシャーの奴隷が解放され、重荷によって縛られていた人たちは、わたしの強さが荷を軽くするのを見いだすだろう。これはヨベルの年であり、わたしは過去のものを捨て、新しく始めたい。これはヨベルの年であり、一人一人の心に救いの喜びが回復し、再び見いだされる時だ。わたしの力には、触れ、正し、回復させられないものは何もないと知ることの単純な喜びだ。今年は、人知を超えた平安を祝い、全ての必要とあなたの心の願いをわたしの玉座から引き出すヨベルの年だ。

  99.(ママ:)主はこのメッセージを今年の4月に与えられました。「今年」とはいつのことかを主に尋ねると、主はこのように私たちを励まして下さいました。

  100.わたしはこの年をヨベルの年に指定したが、あなたが要点を得るには1年もかからないだろう。この要点は即座に得ることができ、今年の残りの期間は、いやしと、わたしが与えたものと救出を喜ぶことに費やせる。「今年」というのは、たった今、今日、今年の事であり、あなたがたは違いを見、感じるようになるだろう。だが、解放や歓喜の賜物がもう一度必要な時にはいつでも、ただわたしに求めなさい。わたしはあなたがたを自由にするために来て、死んだ。そして、あなたがたに一番与えたい賜物の一つが自由だ。わたしがあなたの身代わりになれるように、人間の体を着、人となり、人のような死に方をした最も重要な理由の一つがそれなのだ。わたしは代価を支払った。だからあなたは決して奴隷の身となることはない。

  101.だから、この年は、あなたがたの多くが違いを見、感じる特別な年となる一方、あなたは望むなら、待たずに、その日すぐに解放されるだろう。わたしに向かって声を上げるならいつでも、自由が得られる。自責の念、中毒、ストレスからの解放、人の意見に縛られる事からの解放、不満、傷と痛み、落胆からの解放など、愛する人たちよ、挙げればきりがない。わたしはあなたがたを自由にするために死んだ。敵があなたを傷つけ、わたしから引き離そうとするために使うものからあなたが自由になるのを見る以上の楽しみはない。(以上、メッセージ)

  102.(ママ:)このヨベルの年について、もっと告げて下さいと尋ねると、主は以下のように言われました。

  103.(イエス:)今年は戦争の年だった。来るべき年にもまだ戦いもあるが、違ったものとなるだろう。それは、多くの人たちが苦労してきた霊的プレッシャーからの解放の時だ。戦争には転換点がある。勝敗の決め手となる戦いがあり、一方が優位に立ち、戦さの流れが変わるのだ。戦闘はあるが、優位に立った方の姿勢は変化する。彼らは改めて決意を固める。差し迫る敗北と崩落の恐れから来る恐怖と絶望感は、新しいビジョンと励ましと地平線に上る希望と勝利の霊に取って代わる。

  104.それが今のファミリーだ。あなたがたは敵を完全に根絶したわけではないが、着実に敵軍の敗北の数を増やした。あなたは敵の前進を止め、押し返した。今こそ結集し、攻撃に出る時だ。以前のような絶望感からの一か八かの攻撃ではなく、敵を完全に粉砕するという好戦的な確信に基づく攻撃だ。

  105.これはいやしの年となるだろう。ファミリーが自分と他の人たち両方の過去の過ちを忘れる事を学ぶいやしの年である。以前の敗北寸前の状態も、幾つかの過ちや失敗の原因となっていたが、今はそれらを全て忘れ、他の人たちの傷をいやし、自分自身の傷をいやすことに努める時だ。

  106.ちょうど「割れ目に立つ」のビジョン(ML#70)のように、戦いの流れを変えたのは、全てのことを脇に置き、共通の敵に立ち向かうために一致団結することだった。勝利を完全に確保するために働きかけるべき事はまだあったが、あなたがたの存在そのものを脅かした団結の欠如がもたらす緊張と疲労と弱体化は、新たにされた力と、翌年には勝利が確実というビジョンに置き換えられている。

  107.これが、わたしの言ういやしだ。全員が何らかの面で失敗した。この戦争では全員が何らかの面で傷つき、損失を被った。しかし、この軍の全員がその全てを忘れる必要がある。「割れ目」のビジョンで清めといやしの雨が汚れとすすを洗い流したように、ゆるしとわたしにあっての一体性の雨が、過去の過ちと失敗と誤りの汚れと灰を洗い流さなければならない。これが、一人一人に戦いを最後までやり遂げる力を与えるいやしだ。

  108.ヨベルの年には、負債は免除され、過ちもゆるされ、奴隷も解放された。わが子らは、生活と業績のプレッシャーにつながれていた。多くの人たちが長い間、懸命にもがき、自ら、必要以上の緊迫した戦いの被害者となった。彼らは自ら自分自身の強さの奴隷となり、わたしの愛と自らの重要性を、自分の働きによって計ることの奴隷となったからだ。

  109.霊の内にうみ疲れることと、疲れる事やさらにはへとへとになることが違うように、懸命に働くことと必死にもがくことには大きな違いがある。この年に全ての仕事を捨ててしまうというのではなく、これは、霊感の欠如、ビジョンの欠如、失望感、圧迫感をもたらす全ての重荷、ストレス、うみ疲れること、プレッシャーを捨て去る年だ。「イエスに仕えるためにはこれに耐えなくてはならない」という考え方から抜け出す時なのだ。

  110.テストや戦いはあるかもしれないが、救いの喜びを失ってしまったら、わたしを見失ったことになる。わたしのために生きることの要点を失ったことになる。多くの人たちは、ここにいる理由を見失ってしまった。彼らは仕事が最も大切だと思っている。それはあなたの喜びを枯渇させ、生きる熱意をそぐ。わたしのための全身全霊を込めた仕事にはその目的がある一方、仕事がわたし以上に優先されると、それはわたしの祝福を失い、むなしく満足感のないものとなるからだ。

  111.わたしは、全ての人の心に救いの喜びを回復したい。その喜びとは何だろうか? 最後にそれを感じた時のことを思い出せるかい? それは、素晴らしい仕事と、わたしのために注ぎ込む際限のない時間の喜びだっただろうか? わたしを見つけた時、あなたはこれからたくさんのお金をつくり、財力を蓄えられると思って、圧倒されるほどのエクスタシーを感じたのだろうか? その喜びとは、この世の全ての重荷や思い煩い、家族を養い世話することに励む事の高揚感があなたの心と思いを満たした、言葉では言い表せない幸せだったのだろうか? 

  112.あるいは、その喜びとは、自分は何らかの形でふるさとにいるという、深く、いつまでも続く感覚だったのだろうか? 今まで知っていた他の何よりも現実的な何かを見つけたという感覚だったのだろうか? とても深く愛されていると感じられるので、他の何ものも気にならないという感覚だったのか? ただ、わたしとずっと一緒にいたいという感覚だったのか? 

  113.それらのような深く、いつまでも変わらない喜びに戻る事は可能だろうか? 生きることの苦労の圧迫を受けながら、人知では測り知ることのできない平安を心に持てるのだろうか? つかの間の状況を見越して、純粋な喜びでわたしを賛美することができるような、素朴さを見いだせるだろうか? これからの時代を生き抜くつもりなら、それは可能であるばかりか、必須である。

  114.第2世代の多くにとって、救いの喜びに戻るという言葉は把握しがたい概念だ。自分が救われた時の事は、幼すぎて覚えていないからだ。そのような幼少時代の生活は、思い煩いやプレッシャーに悩まされていなかった。かなり幼い時にわたしを受け入れたので、ほとんど「その前」と「その後」の区別がつかなかった。

  115.救いの喜びの深さと幅を完全に理解していなかったわが第2世代の花嫁たちには、これが、今、ちょうど同じような感覚で満たしてほしいとわたしに求める機会だ。そのような体験はしたが、その力やインパクトのことはずっと昔に忘れてしまった人たちも、わたしに求めなさい。そすればわたしは言葉に尽くせない喜びであなたを満たす(1ペテロ1:8)。

  116.これは、他の人たちや、物、地位、状況に左右されない喜びだ。全て順調にいっていようが、最悪の恐れに直面していようが、それを感じることができる。どんな重圧があなたを押しつぶそうとしていようとも、これはあなたの人生からプレッシャーを取り除く。

  117.全ての思い煩いや心配事が、たとえ少しの間であっても、部屋の外に運び出せる物であると想像してごらん。それを全て外に出し、初めてわたしに会うと想像するのだ。霊の全ての奥義、あるいは弟子としての全ての要求事項、わたしがあなたに何を求めているかを理解する必要はない。わかるのは、自分の周りに、全面的に無条件で、完全に受け入れられ、愛されているという感触を抱いていることだけだ。

  118.証明することも、すべきことも、言うべき言葉も何ない。ただ、完全に受けいれられているという感覚にとけ込むだけでいい。自分が何者であるかやどう見えるかさえも考えない。自分自身という感覚はまるでないのだ。それが、あなたへのわが愛である。その愛があなたを救ったのであり、あなた自身の何かゆえではない。それが救いの喜びである。

  119.仕事をする必要は確かにある。責任や試練に直面する必要もある。生きることの苦労は今後も続くだろう。だが、全てのことをあるべき場所に留めておきたいなら、しがみつくべきものはこの喜びであり、あなたは究極的にわたしのものであると知ることだ。わたしはあなたを無条件で受け入れ、わたしの愛は、あなたのどんな過ちや失敗や誤りをも無効にできる。わたしの愛は、あなたが苦労している荷を持ち上げようとする。わたしの愛は、あなたが自ら縛り付けた束縛からあなたを解放しようと切望する。

  120.だが、わたしの愛にそれができるのは、あなたがわたしの助けを受け入れる時だけだ。わたしはあなたを押し倒して、立ち止まって救いの喜びに焦点を合わせるよう強いることはできない。それはあなた自身の心、あなた自身の願いからでなくてはならない。そうする時、全ての思い煩いとプレッシャーと生きることのストレスを再び正しい見方で見ることができるようになる。すると、素朴な信頼が取り戻され、物事はいつももっと早くやるようけしかけるサタンのせき立てる霊を失う。たとえほんの一瞬でも、あなたが立ち止まってその喜びを回復させるなら、サタンは自分が負けたと知っているのだ。

  121.どのような方法であれ、再びその喜びに焦点を合わせ、それを取り戻すことを学ぶのは、心から働き、遊び、人生を楽しむ助けとなるだろう。困難な時もあるだろうが、それがあなたの心や思いを圧迫することはない。そうしようとしても、あなたの思考や心には常に、喜びが思い起こされるからだ。少しの間、あなたへのわたしの愛を理解し直さなければならないだけだ。

  122.多くの人たちが罪や罰の奴隷となっているが、それはわたしのやり方ではない。さばきの張本人は誰だろう? 聖徒を非難する者は誰か? 法を求める者は誰か? パウロは、わたしをそのような者であると言っただろうか? 彼は、律法やさばきはイエス・キリストから来ると言ったのだろうか? それとも、わたしから来るものは恵みとまことであると言ったのだろうか?(ヨハネ1:17) わたしはあなたがたを自由にする真理を与え、恵みを与えた。それは、神の喜びを受け入れる人全てに対する無条件の神の贈り物である。

  123.わたしは教え、訓練し、さらには正す。しかし、その全てにおいて、常にゴールとなるものは何だろう? あなたは子供たちを苦しめようとして訓練するのだろうか? あなたを恐れさせるために、彼らを教えるのだろうか? 子供たちの間違いやあからさまな誤りに当然の報いを加えるために、彼らを正すのだろうか? わたしがあなたを愛するように、真に彼らを愛するなら、その答は必ず「いいえ」となるだろう。目的は、彼らを正しい方へ引き寄せることだ。彼らへのあなたの愛は、彼らをできる限り幸せに、また強く有能にすることだけを求め、それによって彼らが最大限祝福されるようになるからだ。それはさばきではなく、無条件の愛なのだ。

  124.何度も言ってきたが、サタンの領域であるこの世の性質は、完全な愛の反対である。人の精神や論理は、高慢さによってわたしの愛に反抗する。それは過ちゆえに苦しむことを願う。そうすれば、自分自身、強さと正当性を装うことができるからだ。今でも、多くの人たちが無意識にそのような思考様式に頼っている。

  125.ただ自分の過ちを携えてわたしの下に来て、わたしの顔を仰ぎ見、一生懸命やったけれども失敗してしまったことをすまなく思い、わたしのゆるしを受け取り、より良い道を教えてもらうのではなく、逆にあなたがたの多くは、損失を苦しみ耐え、自分の過ちや、さらには気ままな感情のほとばしりにも苦悩しなければならないと思っている。それに対して、わたしが手渡そうとしている愛とゆるしを受け入れるなら、その時間とエネルギーを、次はもっとよくやることを学ぶことに費やせる。

  126.ああ、どれだけあなたをわざの鎖から解放したいことか! どれだけ、一人一人の心に、このヨベルの年の約束に約束されたものを完全にもたらしたいことか。わがファミリーよ、それは、地上の天国の一片へとあなたを連れて行く。だが、無条件の愛とゆるしを受け入れ、それから自分の最善を尽くすには、あなたの思いでは不可能に思えるそのような賜物を喜んで受け入れる、謙遜な霊を要する。

  127.これは、思いのとりこから自由へとつながる扉の鍵だ。費用はかからないが、全ての代価がかかる。それを受け入れるには、わたしにすべてを負うことになるのを受け入れなければならないからだ。あなたの意思も、舌も、体も、霊も、全てを。あなたは救いを受けた時にそれらをわたしに捧げたが、あなたがたの実に多くが、その後、わたしのものであるべきものをわたしに使わせまいとしている。

  128.これは、あなたがたのためのわがヨベルの年であり、あなたがたがは自由に選択できる。わたしはあなたを解放する。愛の奴隷について、ダビデが話したことを覚えているだろうか?(ML#2134:28-40) 奴隷が解放されると、彼は独立するために出て行くか、自分を解放してくれた人の元に自発的に留まり、もはやただの奴隷ではなく、愛の奴隷になるかの選択がある。奉仕する事を自発的に選び、その奉仕ゆえに称えられ報酬を受ける愛の奴隷だ。

  129.わたしはそれよりもさらに進み、あなたをわたしの愛する人とし、わたし自身とわたしのする全てを共有する妻としての栄誉を与える。この世の態度を人生に溢れさせている多くの人たちにとって、このように自から他人に服従する事は愚かなことのように見える。だが、わたしがあなたの献身と愛、わたしへの完全な譲渡と引き替えに全てを差し出したことを考えるなら、本当に賢い人はそれが最善の機会であるとわかるだろう。

  130.あなたはどちらを選ぶだろうか? わたしは、誠実な愛で動機づけられたあなたの奉仕が大好きだ。そして、言葉に尽くせない喜びでその奉仕を満たしたいと切に願っている。ファミリーの初期のことを考えなさい。泥やテントや粗末な食べ物や狭苦しい状況にあっても、常にそこにあったのは何だっただろうか? 何よりも目につくものは、笑顔と、彼らの目に輝く喜びだ。わが救いの喜びと、それまでの束縛からの自由をとても感謝していたので、彼らは暮らしが厳しく、犠牲に満ちたものとなっても、ほとんどそれに気づかなかった。

  131.彼らは何を持っていたのだろうか? 心や思いにある全てをさしおいて、どんな状況でも永続する深い喜びを持てるようにしたものは何だったのだろうか? それは彼らの救いの喜びであり、救出された喜び、わたしに全てを委ね、わたしだけで十分だとわかったことの喜びだった。あなたもそれが持てる! 試してみてはどうか?(以上、メッセージ)

  132.(ママ:)愛する人たち、皆さんはきっと、主がここで差し出されたものがほしいでしょう。ですから、何ものにもそれを邪魔させてはいけません! あなたを縛っているもの、喜びを奪っているものは何か、それを違う見方で見るにはどうすればよいのかを、具体的に主に聞いて下さい。そしてそれを行うのです! それらを、どのように見えているかではなく、主の言われる通りに見なさい。いやしの祈りを求めなさい。霊の内に解放されるこのヨベルの年というとてつもないチャンスを利用し、もう一度救いの喜びを取り戻しなさい。夢に見た人と結婚した花嫁の喜びを! 主は先にこう言われました。「わたしの真の喜びは、あなたが思いから押し出そうと懸命に試みている全てのネガティブな疑いよりもずっとずっと現実的であり、本物だ。これはもう一つの現実であり、人生に対する二つの異なる見方だ。一方に完全にスイッチを入れて、もう片方の存在をほとんどなくすこともできる。」

  133.愛する友人であり同労者である皆さんを愛しています。このメッセージを皆さんに伝えられることをとても感謝しています。これを学習し、これに生きるよう、祈っています。これは皆さんの人生を変え、強さや充実感や将来への希望に大きな違いをもたらすからです。

  主が私たちのために備えている全てを待ち望み、主の約束の上に完全に休息しつつ、

  ママより

  134.思考回路を変え、人生に主の喜びを持ち続けるために戦うことについて、さらに動機付けとなる導きがほしいなら、以下のレターリンクを参考にして下さい。

レターリンク

[] 「ドン・キホーテ」 ML #198
[] 「幸せがあるからハレルヤ」 ML #1393, DB1
[] 「克服」 ML #3317:8-13,15-18,25–34, GN 921
[] 「リーダーシップのレッスン‚ パート 1」 ML #3347:14-17‚19–30,32‚35-54,56-57, GN 941
[] 「超越する, パート 1」 ML #3379:37–39,94-101‚230-234, Post-it GN #2
[] 「リーダーシップのレッスン, パート 2」 ML #3385:11-15,17-24, GN 982
[] 「再配線される」 ML #3412:33-36, GN 998
[] 「『うつ』を葬り去る」 ML #3464:22-24, Post-it GN #10
[] 「直言, パート 1」 ML #3499:150-165, GN 1086
[] 「賛美=答え、解決策、進歩、力、勝利」 ML #3539:79-82, リンク #1
[] 「わたしにとって本当に大切なものとは」 ML #3555:64-73, GN 1143
[] 「勝利チームを訓練する, パート 6」 ML #3586:5-7,81-82,84-86,167-170, GN 1169
[] "Making Things Right," Christian Digest #20