Maria
July 1, 2006
マリア ML #3594 2/06
愛するファミリーの皆さんへ
1.主がことさらいつくしまれている話題について、主からの励ましの言葉がありますので、皆さんに紹介したいと思います。それは、一人一人が過ごす主との個人的な交わりの時、主の腕の中で横たわり、主に愛し、満たしてもらい、霊を満足させてもらう時についてです。
2.主との過ごし方については色々な方法があります。御言葉を読む、預言で主の声を聞く、主を親密に愛する、とりなしの祈りを通して心を注ぎ出す、主に向かって歌う、などなど。けれども、今回のメッセージは、主のことを瞑想し、主と深い交わりを持つこと、自分の考えやアイデアを空っぽにして、自分自身の計画もなしに、また何かの答えをもらおうともせずに主と過ごすという側面についてです。
3.主は私たちとそのような時間を過ごすことを喜ばれます。実際それは私たちの霊にプラスとなり、養い、新たにするのです。多忙になるとその時間を取る習慣はいともたやすく壊れたりしますが、そのような時間がどれだけ助けになるかや、主の宮に素早く入れるようになることが将来大いに重要になることについて、主からの励ましや約束を聞くならば、皆さんもきっと、そのような瞑想の時間を自分の人生やスケジュールの中で優先事項にしたくなるはずです。
4.「御国の鍵は、あなたの世界とわたしの世界を隔てる幕を開くので、親密な交わりの中で、わたしは、あなたがたに秘密を明かそう。」
私たちの恋人、主にあって、沢山の愛をこめて
ママ
(マリア:)瞑想の時には、改まって主から何か受け取ったり、必ずしも主に何かを告げているわけではありません。これは、自分の思いから他の色々な考えや懸念、重荷を取り除き、自分自身を開いて、主の思考やあなたの心に語りかける主のささやき、主の霊感を受け取る特別な時間のことです。
(イエス:)瞑想とは、地上でのわたしの人生でも大切な部分だった。わたしの奉仕の期間は3年だけだったが、それでも、奉仕を始める前、大人になってから全体的に数年間を、山や荒野で、静けさと孤独の内に父と交わって過ごした。だが、いったん本来の奉仕が始まると、わたしは父との近い交わりと瞑想に何時間も費やした。
瞑想の時間に、わたしは具体的に何をしたのか? わたしはただ静かになって耳を傾けることに多くの時間を費やした。少なくとも毎日少しの時間でも、声も思いも完全に静める時間を取らなくてはならない。仕事についてわたしから直接の答を得たり、祈りで心を注ぎ出したり、わたしに罪を告白したりしない時間、体と霊における、全くの平安と静けさの時だ。
本当だ、静かな瞑想の時間を定期的に取るなら、あなたは・・・はるかに幸せで、はるかに有能になる。気が散らず、体も思いも霊も完全に静まれるとわかっている場所を見つけなさい。それを毎日しなさい。簡単にできるかもしれないし、幾らか練習が必要かもしれない。そして、練習が必要なら、「心の思い(瞑想)がわたしの前に喜ばれ」るまで試みなさい。そうすれば、わたしは「あなたの岩、あがない主になる」(詩篇19:14)だろう。
*
(イエス:)瞑想とそれが意味するものは、長年に渡って幾分あいまいになってきた。特に、世界中で瞑想が色々な方法で実践されている現代はそうだ。肉体面、病気を治すという面、霊的な面であれ、その治療上の益は広く裏付けられている。元々、瞑想は「治療」やいやしの行為と関係があった。そして、わたしは、どのような形の瞑想も、体と霊両方のいやしを生じさせる行為であると確証する。
瞑想とは、思いをいかなる思考からも空にし、霊が完全にリラックスし、休まる状態に達するために、ただ一つのことに集中する行為を言う。目的は平安であり、思いの平安と霊の平安だ。周りの世界の忙しさや喧噪から思いと自己を切り離すという行為自体さえ、人の霊を一新させる。この世の多くの人たちは、単に霊的原則と法則の基本を実行することで、瞑想の初歩のステップを通して精神や霊の平静をある程度得ている。(ML #3554:35‚138, 140‚142,153-155)
5.(イエス:)あなたがただわたしの腕の中でくつろぎ、わたしと交わりの時を過ごすのが、わたしは大好きだ。必ずしも言葉や祈りや賛美でさえなくてもよい。思いをわたしに向けて、そこに思いと霊を留めるなら、わたしたちの魂は霊の内で交わることができる。
6.わたしたちは恋人同士のようになれる。言葉を交わさなくても、ただお互い一緒にいれることを楽しめるのだ。抱きしめ合って、目を見つめ合うだけで、十分コミュニケーションになる。心と心の波長が合うようなものだ。言葉に出して言う必要さえない。タッチやまなざしや微笑みや親密さによって何を考えているかが伝わるか、少なくとも恋人同士として同じような気持ちを持つ助けになるからだ。
7.あなたとわたしもそれと同じだ。まず最初に、わたしのことを賛美するか、わたしのことを考え、心をわたしに向け、わたしからあなたへのいつくしみについて瞑想する。そうすると、わたしたちは霊の内でつながる。あなたはその領域にとどまり、しばらくわたしの腕の中で休める。
8.この心と心の交わりは、あくせく努力して築くものではない。わたしとこのつながりを創り出すには、霊の内での真の平安と集中を要する。肉の力に頼ったり、あれこれ心配しているか、緊急のことでわたしの答を必死に求めたりしている場合は、そのつながりができないことがよくある。そういう時には、肉が強すぎて邪魔になり得る。しなくてはいけないあらゆることで、切羽詰まっていて、それを持ち込むなら、空っぽのままでわたしの前に来て、満たされることができなくなる。だから、しっかり休み、わたしの言葉にもしっかり浸り、すでに賛美によって勢いをつけて、祈りを通してわたしに心を注ぎ出した時に、このタイプの瞑想を試してみなさい。
9.この交わりの時間は、わたしに思いを導かせる時だ。わたしに願いごとをする時でさえない。ただわたしに思いを留めて、わたしの霊があなたの霊に織り混ざって、ついに互いに自由なコミュニケーションの流れを持つことだ。
10.このタイプの瞑想を、水に浮くのを学ぶこととして考えてみなさい。それくらい体の力を抜かなければならない。あなたに必要な浮力をわたしの霊から受け取れるようにするには、ただ霊の内でだけでなく、肉の内でも力を抜かなければならない(肉体的にも快適で、休める状態でなければならない)。まわりで何が起こっているのかを見ようとあせり、顔を上げたりしようとするなら、バランスが崩れて、わたしとのつながりを失う。しかし、ただ仰向けになり、身体のすべての筋肉をゆるめることに集中し、この世の騒音をすべてシャットアウトするなら、見事に水に浮き、素晴らしい感覚が味わえるだろう。
11.思いと身体の力を完全に抜き、思考もわたしで満たされている状態に入る方法を学んでほしい。その時、あなたはわたしの思いと一つになるので、わたしはもっと直接あなたの霊に働きかけて、人生の重要な事柄において導き、ずっとあなたをわずらわしていた問題への大きな突破口となる解決策を与えられるからだ。
12.わたしとの親密な瞑想や交わりに入る時に、肉と霊の内でどのように物事が結びつくかや、それによってどれほど素晴らしいものに到達させてあげられるかを、わたしはあなたによりよく理解させてあげたい。多くの面で、それは、ほとんど眠っているか、目覚めつつある状態と似ている。うとうとしかけているか目覚めかけている時の安らいだ状態では、身体は思いに対してあまり大きな影響を与えず、思いが霊的な天の領域に向かって行くに任せる。このようなタイプのわたしとの安息に満ちた交わりの間には、わたしもあなたの思いに対して、これと同じようなことができるのだ。
13.まるで、あなたの思いにドアがあって、あなたがそうさせてくれるなら、それを通してわたしが自由に出入りできるようなものだ。わたしたちの思いが一つとなって交わるその時、わたしは沢山の答えを与え、深い霊的な真理を明らかにし、あなたが今まで行ったこともないほどの深い領域に連れて行くことができる。またあなたは、想像したこともないほどに、わたしの力と強さとエネルギーで満たされる。
14.しかし、「どうすれば主とのこの親密な交わりに到達できるのだろう。深遠で複雑に聞こえる」と考える人もいるかもしれない。それも理解できるが、実のところ、瞑想の美徳は、その単純さにある。小道具も活動も、読み物も、一切必要ない。ただ自分の思いをわたしに置いてしまえばいい。ただ、リラックスして、重くのしかかっていた荷を下ろせばいいだけだ。重荷を下ろすのは、賛美すること、祈りを通してわたしに重荷を預けること、わたしに向かって歌うこと、わたしの言葉を読むこと、親密にわたしを愛することによって、最も良くできる。そうすれば、空っぽのままで、いつでも満たされる状態でわたしのところに来ることができるから。
15.何でも自分にとってうまくいく方法、安らいだ状態に入る助けになることをしなさい。必要は十人十色なので、自分にとって何がベストかを尋ねなさい。目覚めた時に少し瞑想するのが一番簡単なら、そうしなさい。または、わたしの言葉に入った後やその最中に最も集中できるなら、そうしなさい。歩いている時、または寝る前、または日中に横たわって休む間が理想的なら、それもいいだろう。何でもあなたにとってうまくいくことは、わたしもそれでオーケーだ。わたしはいつもここにいるから、いつでも待っているよ。
16.とても愛しているよ。あなたをわたしの考えや解決策や天からの見方で満たしてあげたくてたまらない。それらはあなたを霊の内の高みに引き上げ、色々な所に連れて行くことができる!
17.(イエス:)瞑想とわたしの細い小さな声を聞くのは重要だ。その時にはわたし以外の何ものにも集中していないからだ。そうすれば、わたしには、ほとんどどんな事でもあなたがたのためにする機会ができる。このようなコミュニケーションやわたしと過ごす時間は、わたしの言葉に挙げられているもろもろの理由や、あなたがすでに知っている理由のゆえに、あなたのために良い。また、それ以外のどんな方法によっても決して浮かばなかっただろう感情や思い、アイデアを伝えるために、わたしが突破口を開く機会を与えてくれる。
18.ファーザー・ダビデがファミリーを導いていた頃、わたしはしばしば彼に語り、夢を通して導いた。そのような時、彼はわたしが突然語り出すことを喜んで受け入れた。そして、それによって彼は、ファミリーをわたしが望む通りの形にする助けとなった、驚くほどの、しかも実際的な啓示やアイデアを受け取った。彼は、わたしが与えるものを何でも、いつでも受け取れるようにしておくために、何も考えたり行ったりしていない、まっさらな状態でいなくてはならなかった。
19.心に何の問いも思いもなしにわたしの前で静かになる時、瞑想とわたしとの深い交わりを通して、それと同じようにわたしがあなたの心に通じるための経路と機会が与えられる。期待していないか、求められるとわかってさえいなかった事柄を受け取れるのだ。あなたは啓示を期待してわたしの前に来るのではない。それでは、あなたの思いを空っぽにして、わたしと交わるという目的を打ち壊すからだ。しかし、わたしがあなたに何かを告げたり、前にはなかったような気持ちを心の中に置く必要がある場合、あなたにその準備ができているとわかっているのはわたしにとって助けになる。
20.ただ、それがわたしから答を得るための、より優れた方法だというのではない。預言はやはり、状況についてわたしの思いを思い、わたしの言葉を受け取るための最適な方法だ。しかし、静かな瞑想と、自分の思いをただわたしだけに置くことは、特別な役割を果たす。これをあなたが実践することで、わたしは、他の方法では与えられなかったか、他のどんな方法によっても、伝えるのがはるかに難しかった考えやアイデアを持ち込み始めたい。
21.時々、預言で聞く時に、これを経験した人たちもいるだろう。質問をしたい、わたしの全体的な意見を聞きたいと思ってわたしのもとに来たら、わたしが突然、思いもよらなかったことを伝えたということが。わたしは、今までとはまるで違う、それまであなたが考えてもいなかったことを示したのだ。
22.しかし、預言でわたしを求めている時には、たいてい心に何かの質問があるか、その日について、または仕事や自分の生活について何かの気持ちや意見を携えて来ている。そういう場合あなたはわざわざそれを抑えたりはしない。そういった気持ちや意見を携えてわたしの所に来る時、わたしはそれについて話し、コメントし、何をすべきかを示す機会ができるからだ。これも良いことで、預言の賜物についての重要な側面だ。
23.しかし、心に考えや意見や必要がある時には、完全に心を空っぽにして、突拍子もなく、変っていて、あなたの現在の状況や考えや必要と全く無縁なことなど、何でもわたしから受けとれる準備をするのはもっと難しい。
24.しかし、愛する人たち、わたしは時々、あなたが心に抱く思いや抱いている質問とは何の関係もないことや、長期であれ短期であれ、あれこれ考えている計画とは無縁の事を示さなくてはいけないことがあるのだ。
25.それらは、「あなたがたの知らない大きな隠された事」だ(エレミヤ33:3)。わたしは、あなた個人の人生と状況への鍵となって問題を溶かし去ったり、何かの面で長く続いている「もつれ」を解消させる奇跡的な答を、突然与えることができる。または、自分では問題などとはまるで考えていなかった問題点を明らかにするだろう。けれども、わたしがそれを示せたゆえに、あなたはひどい状況になる前に、その状況を正すための手順がとれる。あるいは、あなたの心に励ましの気持ちを置くだけのこともあるだろう。あなたが今までそう感じたことがないなら、わたしに愛されていて、わたしによって安心できるという励ましをあなたの心に置くこともある。
26.わたしが何を与えるにせよ、必ずしもあなたが尋ねたり、受け取ろうとしておらず、尋ねることを考えもしなかった特別なこと、型破りなことについて、あなたに語る場が必要だ。あなたは質問さえわかっていないかもしれないのだから。そして瞑想こそ、わたしがそのような答を与える一つの方法なのだ。
27.瞑想でしかわたしの答を聞けないのではなく、瞑想でしかそのような予想外の真理を受け取れないのでもない。しかし、瞑想は一つの方法であり、わたしが触れたかった重要な部分だ。ただわたしのことを考え、わたしに耳を傾け、わたしにフォーカスする時というのは、わたしが語り、導き、霊感する、とても特別な場となる。だから、それなしですまそうとしてはいけない。
28.あなたは、瞑想とは、ただリラックスすること、わたしにあって休むこと、または霊的集中力を使い、他の考えをシャットアウトすることと思っていたかもしれない。または、ただわたしのことと、どれだけわたしを愛しているかを考えて、わたしを親密に愛することの一種であると思っていたかもしれない。または、天の思考パワーや完全な所有の側面の一つと思っていたかもしれない(リンク第二号の10-11 ページや、New Wine(英語のみ)の「完全なる所有(ML #33766)と、「天の思考パワー」ML #3377 も参照)。結局、その全部が幾らか含まれているが、たとえ特に何かを受け取ろうとしていなくとも、あなたはアンテナを上に向けるべきだ。
29.わたしとプライベートに交わり、わたしのことを瞑想している時には、そうあるべきだ。わたしのチャンネルに合わせていて、波長を合わせているが、特に何かを尋ねているわけではない。ただわたしと時間を過ごしているだけだ。預言でわたしの言葉を受け取っている時のように、わたしがどっと言葉を語り出すものと思ってはいけない。むしろ、ただわたしに思いを集中させて、わたしについて考え、わたしか、わたしについて考える助けになる何かに集中し、他の考えをすべて思いの中から締め出して、ただ、わたしにオープンになって受容的であるようにしなさい。空っぽになってわたしに満たしてもらえるように。
30.わたしの下に来て、わたしにより近く感じられるか、少なくとも、他のすべてをシャットアウトしたのであなたが霊でわたしを感じることができ、わたしの前に来たとわかるようになれるよう、働きかけなさい。すべての人が「感覚」を得られるわけではないが、たいていの人は、この安息に入り、わたしとの交わりに入った時にそれを得るだろう。
31.そうなったら、しばらくそのままでいなさい。安らかにし、わたしがあなたに送るものを、忍耐をもって待ちなさい。わたしは何も言わず、ただ静けさと霊を空っぽにすることの益を経験させるだけかもしれない。または、あなたの心と生活を、新鮮なフィーリングや、ドームからの天国の突風で満たすかもしれない。または、前にわたしが言った啓示や新しいアイデアの一つをささやくかもしれない。あるいは、あなたと会話を始めるかもしれない。わたしの花嫁たちがそうさせてくれるなら、わたしは喜んでそうしたい。
32.わたしと会話を交わすというのは、磨くべき技能であり、賜物だ。それは、集中力を失ったり、ただ頭の中で考えているだけだと考えずに、会話を交わせる力だ。預言を受け取っている時、あなたはたいてい、祈りや質問以外にはあまり話さず、わたしから与えられる言葉以外の一切のものを締め出すようかなり努力している。しかし、心と思いの静けさの中で会話を交わす時というのは、ただの一方通行のためではない。だから、わたしに応え、わたしと交わり、わたしの答を聞く必要がある。
33.わたしとの深い交わりの時にわたしが与えるものは、それがくだけた会話であれ、瞑想であれ、ただわたしの腕で休むことであれ、常に大きな、重大なポイントではないかもしれない。実際、そうなることはまれだ。しかし、少なくとも、あなたがそれ以外の方法では思いつかない重要なことについてあなたの関心を得なくてはいけない時には、わたしにはそのチャンスがあることがわかる。
34.ただわたしの前で静かにじっとして、一緒に時間を過ごす以外には何も期待せずに、わたしたちの時間に望むのは重要だ。あなたの思いと霊はその時間が必要なのだから。何かを求めながら来てはいけない。ただ空っぽで静かになって、わたしが何かを与えなくてはいけないと知っているなら、そうすることを知っていなさい。
35.そのような静けさにさらに多く、さらに素早く入れるようになることを、わたしとの瞑想の時間を実践する上でゴールとして目指すと良いだろう。もっと素早く自分の考えを脇において、わたしに素早く、より効率的に焦点を合わせる能力をつかんでほしい。それは、わたしから預言で聞いたり、ワードタイムを始める前や眠る前にさえ、その日の様々な思いや肉の思いから清められる素晴らしい方法だ。この技能は、来たるべき日々、つまり目前の将来ともっと先の将来の両方に必須となる。
36.これは、あなたの霊的な面と、肉的な思いと身体の両方にとって広く役立つ習慣だ。別にわたしとのつながりで最も大切だとか、霊的武器の中で最も重要というわけではないが、これはあなたの益になり、おろそかにすべきではない。これをもっと頻繁に行い、練習を積めば積むほど、そうした時間の益はますます増えるだろう。この方法を通してあなたの関心を得て、あなたを新たにできるとわかれば、わたしはあなたの人生を豊かにし、導くために、これを大いに使い始めるだろう。
37.もちろん、初めの数回のトライでも、わたしは何か特別なものを与えようとするだろう。しかし、この方法でしばしばわたしの前に来るようになるなら、回を追うごとに真の益がもたらされ始めるだろう。
38.(ママ:)次のメッセージは、瞑想の違った側面についてで、ひとたび主と深くつながったなら、一日中それを保てるということです。けれどもそれは、完全に主のものとなって主に焦点を当てている時の代用にはなりません。つまり、「今日は静かに主のことを瞑想する時間がないから、仕事をしながら主と交わろう」と考えて、同じ効果を期待してはいけないのです。
39.もちろん、働いている時に主と交わることで、その日はもっと仕事の成果があり、実り豊かで、祝福されることでしょう。けれども、ただ主の前に静かに座り、主のことを瞑想することとは違います。両方必要とされています! 主との静かな時間に主とのつながりを作るなら、ウイングに移ろうとも、一日中、主との交わりや平安、つながりの霊を保つのがはるかに楽になります。
40.(イエス:)愛する人たち、あなたがたはとても忙しい! することが多すぎて、頭の中はいつも仕事のことばかり。身体もできるだけ素早く、良くやり、もちろんできるだけ祈り深くやるのに忙しい。わたしの仕事をするための熱意は嬉しいが、それをしている間にもわたしという存在がそこにあれば、わたしはもっと嬉しい。わたしは、あなたから時々相談を受けるアドバイザーではなく、毎日、一日中、直接の助け、一緒にいる相手、カウンセラー、友、シェパード、夫となりたい。
41.一日中、あなたと交わっていたい。心と心の会話をして話し合い、共にカウンセルをし合いたい。わたしが外部の専門家でもあるかのように、たまに何か決断をしなくてはいけない時だけあなたから相談されたり、イエスまたはノーや、簡単な導きを求められるのは望まない。夫と妻として交わりたい。色々なことについて話し合い、心にあることを分け合い、最後に両方にとって良いと思えることについて、双方が同意した決断に至ることを望む。
42.残念ながら、あなたがたの中にはこの面で不足している人々がいる。本来すべきほどわたしと交わらず、一日を押し進めながら、どちらかと言えば自分の思いと交わっている。考え事をして、経験や自分が正しいと知っていることや、レターや出版物や敬神的なカウンセルによって導かれている。それで、わたしは絶えず助けるカウンセラーや導き手というよりも、余分の存在か、形式的に承認をする存在でしかない。あなたは良くやろうとしていて、努力もしているが、それよりもっと良くできるはずだ。わたしが望むあなたとの心と心の交わりは、わたしにとって極めて重要であり、今よりももっと頻繁にそれを持ちたい。
43.あなたがたは、心はマリアでも、思いはマルタだ(ルカ10:38-42)。マルタの思いが入ってきて、これをしなくてはあれをしなくてはと思い起こさせる時には、たとえば、電話をかけたり、メールを送ったり、この人あの人と話したり、この小さなことをするようにと言う時には、結局、一日中、マルタが采配を振るうので、マリアは取り残される。
44.せっかく一日をマリアとして過ごすことで始め、わたしの足下でわたしから学び、わたしと語ったとしても、残りは全部マルタとなってしまう。わたしと宮にいる時間があまりにもおろそかにされて、まるで一日中、一度も宮に入っていないかのようだ。あなたがわたしのためにしている仕事は評価するし、共に過ごす時間を感謝するものの、わたしはもっとあなたと時間を過ごしたい。あなたがさせてくれるなら、わたしはそうする。
45.わたしとの甘美な時間で一日を始めなさい。それから、その時間とわたしの存在が一日中あなたと共にあるようにしなさい。一日が始まる前に、マルタとその忙しい思いと沢山の仕事にはしばらく鍵をかけて閉じこめておき、静けさと信頼の内にわたしと交わりなさい。そうすれば、その日のための強さと平安と力、愛、油注ぎを得るだろう(イザヤ30:15)。
46.何よりも先にわたしと時間を取りなさい。マルタがドアをノックし続けて、やらなくてはいけないあらゆることを思い起こさせ、どうして座ってわたしとそんなに「長い」時間を取ることができるのかと問いつめてくるなら、わたしを賛美し、わたしを親密に愛し、わたしの言葉に集中し、わたしに向かって歌い、異言で語ることによって、霊的な耳栓をしなさい。
47.一日中わたしに一緒にいてほしいなら、わたしの前に静まり、わたしを求め、わたしを見つけなくてはならない。一日の最初に立ち止まり、見て、聞き、一日中そうなるようにしなくてはならない。だから、マルタがあきらめてノックをやめて行ってしまい、あなたの心と霊が新たにされるまで、試み続けなさい。
48.それから、一日中わたしを共に行かせ、その間、わたしと会話し、それが生活の一部となるようにしなさい。自分に向かって、「今何をすべきだろう」とか「何を言うべきだろう」と問うのではなく、わたしに、「主よ、今何をすべきですか」、「主よ、何を言うべきですか」と尋ねなさい。わたしと話し合いなさい。わたしたちは、あなたが他の誰とするのとも同じように、共に会話を続けられる。
49.戦いや試練があっても、ただ自分自身に対して、自分は何て駄目なんだ、何てひどいんだ、何てがっかりなんだと言ってはならない。すべてをわたしに説明し、どうして自分が気まずく思ったり、がっかりしたり、めちゃくちゃに思うのかを話しなさい。その日の問題について話し合う時に、わたしは助けと慰めと安心と克服するための力を与えることができる。重荷を負うて苦労している者よ、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ11:28)。
50.一日中、わたしの静かな細い声に耳を傾めていなさい。昔、しもべエリヤに教えた教訓を思い出しなさい。エリヤが山の上に立っていた時に、わたしは嵐や風、または地震や火の中にいたのではなく、ただ静かな細い声で語った(列王記上19:9-12)。いつか、あなたは嵐や地震や炎をくぐり抜けているように感じるかもしれないが、その時も、細い静かな声、つまりわたしの声に耳を傾けることができる。わたしは、どうやって嵐を静め、地震を乗り越え、炎を消すかを助言するから。
51.だから、一日を、賛美と祈りとわたしの言葉、わたしとの時間によって始めなさい。それから、わたしをあなたと共に行かせなさい。わたしの力なしにわたしの仕事はできない。それをするには、わたしと時間を過ごさなくては。そして、必要な力をキープして、忙しい生活の中の仕事や苦労によって弱ったり、圧倒されたりしないためには、わたしと時間を過ごし続けなくてはいけない。
52.わたしとつながっていなさい。わたしに常にあなたとつながらせていてほしい。わたしに語り、わたしに歌い、わたしと会話し、わたしに耳を傾け、わたしと交わりなさい。わたしなしに成し遂げることはできない。朝、一日が始まる前に、一緒に少し時間を取るだけでは十分ではない。一日中、一緒にすごさなくては。
53.これは聞こえはいいが、実際にできるかどうか自信がない人たちもいる。霊的すぎる、でも自分はそれほど霊的ではないと思うからだ。だが、それは実際的なことであって、一度習慣にしてしまえばできる。結局、あなたは一日中、考え事をしているだろう? いつも頭の中で何か考えていて、どうやってこれやあれをするか、いつ、どこに行くか、何を言うか、などなどあらゆることを考えているのではないか。絶えず自分に語っている。だからわたしに語りなさい。わたしに語りかけて、心の中や考えや願いや質問をわたしに打ち明けられるのに、どうして自分に語るのか。
54.わたしたちが話している時、わたしは、あなたの仕事について正しい見方ができるように助けられる。また人間関係や、自分自身に対する態度でさえも。わたしにもっと入らせてくれるなら、あなたはわたしの思いやわたしの態度、わたしの考えをもっと持つようになり、もっとわたしに所有される。あなたの心に通じるのがもっと簡単になり、あなたはわたしの声をもっと明確に聞くようになる。また、わたしはあなたの行動をより良く導けるようになる。すべきことをあなたに思い起こさせ、新しいアイデアや物事の新しいやり方を与え、あなたに必要な答を与えられる。静けさと信頼の内にわたしの下に来なさい。そうすれば、必要な強さと力を受ける。わたしに近づきなさい。そうすればわたしはあなたに近づく。それらはあなたへのわたしの約束だ。
55.一日を賛美と祈り、わたしの言葉、わたしとの交わりで始め、一日中、賛美と祈りとわたしとの交わりを続けなさい。あなたにはできる。絶えず祈り、すべてのことに感謝し、もっと頻繁に交わることができる。あなたが自分の分を果たすなら、わたしも自分の分を果たして、あなたのために力を尽くそう。あなたを呼ぶわたしは忠実な者であって、しかも実行する。
56.わたしは、毎日あなたの生活の中で一緒にいることを切望する。そうさせてくれないか。もっとわたしに語り、一日を過ごしながら、わたしともっと話し合い、心や考えや願いをわたしに言ってくれないだろうか。わたしも、自分の心にあることや考えや願いをあなたに分け合い、あなたが想像もできないほどの美しい関係や愛やきずなやフェローシップを発展させて、愛する妻であるあなたに絶えず付きそう伴侶でありたい。あなたを愛しているからだよ。
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(マリア:)時々、私たちは、世俗的または宗教的な記事に関心を持つことがあり、主が私たちに示して下さっていることを裏付ける以下の記事もそうです。大体、私たちは他のクリスチャンの書いた物に深入りする必要は感じません。弟子としての生活を助けてくれる豊富なニューワインによって祝福されているからです。そして、キリスト教関係の真実で良い記事と、特に弟子としての資質を強めてくれる記事との間には、大きな違いがあります。
キリスト教関係の多くの執筆物は善良で霊感されます。あなたのゴールがただ良いクリスチャンにあることなら、助けになり、養ってくれることでしょう。けれども、ゴールが、敵(悪魔)に対する脅威となって、毎日敵の領域を奪い取る弟子や宣教師、プロのクリスチャンとなることなら、御言葉の堅い肉と、主が現在の私たちに与えられる御言葉の適用法が必要です。確信を堅く保ち、ドロップアウトして弟子としての困難な人生を歩む強さを与えてくれる、主からの強いメッセージを要します。敵の激しい攻撃に対してあなたを強めるのは、御言葉の堅い肉であり、新しいワインです。イエスのためにすべてを捧げる人生を生きることで、敵に対する脅威となっているなら、敵は絶対に攻撃してくるでしょう。
ですから、以下の記事は霊感で、助けにはなるものの、他の主流派クリスチャンや教会の執筆物を読み始めるようにとの私たちからの全面的な推薦として取ったりすることのないようお願いします。大半の部分は悪くも間違ってもいませんが、必ずしも皆さんの弟子としてのライフスタイルや、終わりの時のエリートとして直面する激しい戦闘に対する助けとなるわけではありません。また、皆さんの時間はとても貴重なので、少しの時間でも、主のために大きく前進し、できるだけ強くなるのを助けるような事を読み、勉強するために使うべきです!
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フィリップ・ヤンシー、クリスチャン・トゥデイ
作家で、毎年、幾つかのクリスチャン静養会を主催するプレナン・マニングが、一度私にこう言ったことがある。彼の与える静養のための原則に従った人で、神から聞けなかった人は一人もいないと。私は興味をそそられ、半信半疑で、静養会の一つに参加申込みをした。5日間の静養会だ。
さて、出席者は、毎日、1時間ブレナンと会い、彼から、瞑想と霊的な務めにおける課題を受け取る。また、毎日の礼拝には皆で集まり、その時には、ブレナンだけが話す。それから、各自が思い思いに時間を過ごすが、一つだけ条件がある。それは毎日2 時間祈りの時間をとることだ。
私は自分の人生で、一回の祈りに30 分以上費やしたことはなかったと思う。初日に、牧場のはずれまで何となく歩いて行き、樹にもたれて座った。ブレナンからのその日の課題と、考えたことを書き留めるノートとを持っていた。どれくらい長く起きていられるだろう、と私は思った。
幸運なことに、147頭のオオジカの群れ(数えるだけの時間がたっぷりあったのだ)が、私が座っていた野原にやって来た。一頭のオオジカを見るだけでも感動するのだから、自然の環境の中で147 頭のオオジカを見るのは、心奪われる。しかし、2 時間も147 頭のオオジカを観察するのは控えめに言っても退屈だとわかった。オオジカたちは首を下げて草をはむ。イヤなカラスが来ると一斉に首を上げてカラスを見る。それから再び首を下げて、草をはむ。2 時間の内にこれ以外何も起こらなかった。アメリカライオンが襲うことも、雄牛同士の対決もなかった。オオジカが全頭、首をかがめて草をはんでいたのだ。
しばらくすると、あたりの平穏さが私の心に影響してきた。オオジカは私がいるのに気がついていなかった。私はただそこの環境に溶け込み、彼らのリズムに合わせていた。家に残してきた仕事や、迫っている締め切り、ブレナンからの課題を読むことも、すっかり頭になかった。身体もくつろいでいた。深い静けさの内に、私の思いは静かになった。
「思考が静かであればあるほど、祈りはさらにパワフルで、価値を持ち、深く、効果的で、完璧になる」とメイスター・エックハートは言った。オオジカは思考が静まるよう努力する必要はない。一日中、仲間のオオジカと草原に立ち、草をはむことで満足している。恋人同士は相手に注意を払うための努力をする必要がない。わたしは、そのようにひたすら神にだけ関心を向けることを求めて祈り、一瞬のうちにその答えを得たのだった。
それから、毎日午後には、野原や森でオオジカたちを探したものの、再び出会うことはなかった。数日間は、神に沢山語りかけ、また、主のみまえに静かに座っていた。私はリストを作った。一度に何時間も野原に座っていなかったなら決して受け取られなかったであろう多くの事が、心に浮かんだ。その週は、さらなる成長への道を指針を得る霊的検査のようなものだった。直接の声を聞いたわけではなかったが、その週の終わりには、確かに自分は神から聞いたと、ブレナンに同意せざるを得なかった。
神は、真に神を求める人々とコミュニケーションするための方法を見出されるのだと、強く確信した。特に、私たちが、まわりの雑音のボリュームを下げる時はそうだ。忙しい生活を中断して、霊的探求のために数日間、修道院で過ごした人の話を思い出す。修道僧はその人を小部屋に案内しながらこう言った。「何か必要なら知らせて下さい。そうしたら、それなしでやっていく方法をお教えしますから。」
私たちは祈ることで、祈りを学ぶ。2時間の集中した時間から、私は多くを教えられた。まず、祈る時には、自分のことより神のことをもっと考えなくてはならないということだ。主の祈りでさえ、神が私たちから求められることを中心にしている。「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心がなされますように。」 神は私たちがそれらのことを願い、それらを中心に人生を送るのを望む。
神に「下さい」のお願いをするのではなく、ただ主と共に時間を過ごしたいと願い、神が自分から何をほしいかだけを見極め、見返りを求めないで神のもとに来ることが、私にはどれくらい頻繁にあるだろうか。オオジカのいる野原でそれをした時に、不思議にも、導きを求める祈りの答は、いつも自分のまわりにあることがわかった。何も変わらない。変わったのは私のレセプター受容器)だった。祈りを通してそれを神に開いたのだ。
瞑想的な祈りは意味がないと言う人々もいる。何かを受け取るためではなく、まるで子供の遊びのように自然発生的にしているからだと。神と長く時間を過ごしてみて、とても重要に思えた私の緊急のリクエストが、違ったように見えてきた。自分のためではなく、神のために求めるようになったのだ。必要に迫られて祈りに向かうとしても、そこで、私の最大の必要と向き合うことができる。その必要とは、神ご自身と会うことだった。